58歳の新たな日常:静かな出会いが紡ぐ小さな奇跡

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はじめに

 この年になって、まさか自分の胸が再びときめくとは想像していませんでした。
58歳という年齢は、定年まであと少し、人生の落ち着きどころを考えてゆく歳だと思い込んでいたのです。
けれど、穏やかに流れる日々の中に、ぽつんと静かに差し込む温かな光のような存在が現れることもあるのですね。
これは、57歳の彼女と出会い、ゆっくりと距離を縮め始めた私の、小さな恋の記録です。

出会いの場所

商店街の小さなきっかけ

 出会いは意外なほどささやかなものでした。
私は週末ごとに、近所の商店街まで散歩をする習慣をつけていました。
腰痛対策も兼ねて、ゆっくり歩いて運動不足を解消しようと思ったのです。
ある日、いつものように散歩中、商店街の八百屋の前で、彼女が店員さんと話している場面を目にしました。
彼女はスーパーのパート先で扱う野菜の産地を確認するため、直接仕入れ先に話を聞いているようでした。
その真面目な横顔に、なぜか目を奪われたのを覚えています。

はじめての会話

スーパーのレジで

 翌週、私は帰り道に彼女が働くスーパーへ立ち寄りました。
適当に果物と牛乳、パンなどをカゴに入れレジへ向かうと、そこに彼女が立っていました。
「いらっしゃいませ」
彼女は最近スマホに変えたばかりという噂を店員仲間が話しているのを、並んでいるときに小耳に挟みました。
ガラケーからスマホへの移行、私の娘も昔そんな話をしていたなと思い出し、会話の糸口を探ります。
「最近、急にスマホに変える方増えましたね。
便利だけれど、最初は慣れないですよね。」
私がそう声をかけると、彼女は少し驚いたように目を上げ、「ええ、もう画面を触るたびにどこかに飛んでいってしまうんです」と少し恥ずかしそうに笑いました。

過去と現在

家族の距離と心の隙間

 私は初婚で離婚経験もありませんが、娘が海外に移り住んでから、家族という存在はだんだん遠く感じていました。
祝日に娘とビデオ通話をするくらいで、普段は一人暮らし。
相手の彼女は長らく老母との二人暮らしでしたが、最近母親を亡くして一人暮らしになったばかりだと、会話の端々から察しました。
「お母様を最近亡くされたとか…大丈夫ですか?」と私が失礼にならないよう慎重に声をかけると、彼女は「まだ慣れませんが、なんとかやっています。
一人って意外と静かですね。」と小さく息をつきました。
その言葉に、私も「わかります。
私も娘が巣立ってから、静かな家にまだ慣れないところがありますよ。」とそっと返しました。

健康と気遣い

高血圧と腰痛

 彼女は高血圧気味らしく、朝には必ず血圧測定をするそうです。
「この年になると、自分の身体をちゃんと管理しなきゃと痛感します」と彼女が言えば、私は笑いながら「腰痛でね、やっと散歩を始めましたよ。
余計な塩分は控えるようにしています。」と答えます。
これまでこういった健康の話題は少し暗い気もしていましたが、不思議と彼女との会話では自然に感じました。
お互いが気遣いあえる関係が、ゆっくりと芽を出しているような気がしたのです。

テクノロジーと距離

使いこなせないスマホとLINE

 彼女はつい先日までガラケーだったそうで、スマホにした途端、LINEというアプリが当たり前のように使われていることに驚いたといいます。
「友人が少なくて、LINEで連絡する相手なんていないんですけどね」と少し寂しげな笑みを浮かべる彼女に、私は「もしよければ、連絡先を交換しませんか。
私でよければ、LINEの使い方をお教えしますよ」と提案しました。
緊張と期待が交差する中、彼女は「それは…助かります」と控えめにうなずきました。
胸がほんのり温かくなった瞬間です。

小さな前進

喫茶店で過ごす午後

 後日、近くの喫茶店で待ち合わせをしました。
私はコーヒーを、彼女はハーブティーを注文します。
ふたりでスマホ画面を覗き込みながら、LINEのスタンプの送り方や、写真の保存方法を一緒に確認します。
彼女は最初こそ戸惑っていましたが、私がゆっくり丁寧に教えると、「あ、こうすればいいんですね」と、ようやく少しずつ慣れてきた様子です。
そんなやりとりの中で、私たちの間に漂う空気が、わずかに近づいているのが分かりました。
この小さな前進がなんとも愛おしく感じられます。

新たな日常

散歩コースと声の掛け合い

 それからというもの、週末の散歩で彼女に会うと、少しおしゃべりをしたり、スーパーの勤務時間の合間を縫って挨拶を交わすようになりました。
彼女は「スマホで写真を撮ってみたんです」と、春先の花壇の写真を見せてくれることもありました。
ややピンボケの写真も、「最初はそんなものですよ」と言うと、彼女は恥ずかしそうに微笑みます。
こんな些細なことで心が満たされるなんて、かつては思いもしませんでした。

おわりに

 58歳と57歳。
まさに人生の折り返しを過ぎた私たちは、若いころのような熱量ではなく、じんわりと穏やかに響く心の温もりを求めていたのかもしれません。
長年重ねてきた経験、遠ざかった家族、変化した体調と限られた体力。
そして、不慣れなテクノロジーさえも、二人で笑い合えば心の距離を縮める一つのきっかけになります。
彼女との出会いは、私にとって新しい日常を彩る小さな奇跡のようなものです。
これから、どんな季節が訪れても、この温もりを大切にしていこうと思います。

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