はじめに
私は58歳の男です。
8年前、妻を病で亡くしました。
子供は既に独立し、それぞれ家庭を築いているため、私の日常は都会のマンションで独り静かに過ぎていきます。
定年退職後、週3日の嘱託勤務で金融機関に顔を出し、決まった業務を淡々とこなす。
残りの日々は、近くのジムで軽い筋トレをしたり、本を読んだり、家でテレビを眺めたり。
誰と深く話し込むわけでもなく、また何か新しいことに飛び込む気力もなく、ただ、静かに年を重ねている。
そんな私が、大阪・中之島で、思いもよらぬ胸の揺らぎを感じる出来事に巡り合うとは、想像していませんでした。
健康管理と都会の散歩
軽度の糖尿病を指摘されてからは、食事には多少気を遣ってきました。
カロリー計算をしたり、甘いものを控えたりする日々は、味気ないと言えば味気ないものです。
しかし定期的な運動と食事制限で数値は安定しており、主治医にも「この調子で続けていきましょう」と言われています。
私は週末の朝、ウォーキングを習慣に加えました。
運動といっても、ジムの有酸素マシンだけでなく、少し遠出して街並みを歩くことが、私にとって気分転換になってきました。
都会のオフィス群と水辺が調和する中之島のエリアは、私のお気に入りの散歩コースです。
川沿いのベンチに座ってボートを眺めたり、図書館の前を通り過ぎたり、ビル風を感じながら歩くうちに、心が少しだけ軽くなる気がします。
偶然の一言
その日も中之島公園のベンチに座り、スマホでニュースを眺めていました。
SNSはほとんど使わず、家族との連絡もメール中心。
ニュースアプリで世界の出来事を追いかけることで、自分はまだ社会に繋がっているのだと確かめるような習慣です。
ふと、背後から声をかけられました。
「すみません、この辺りで朝市が開かれているって聞いたんですが、ご存じありませんか?」
振り返ると、私より少し年下か同世代くらいの女性が立っていました。
彼女はカジュアルなシャツとパンツ姿で、ナチュラルな笑顔が印象的でした。
私は少し戸惑いつつ、「ええと、たしか反対側のエリアでやっているはずですが、時間はもう終わったかもしれません…」と答えました。
初対面の相手に対して不思議なくらい素直に言葉が出たのです。
些細な会話が生む温もり
「そうなんですね、もう少し早起きすればよかったです」と、彼女は苦笑しながら答えました。
そのまま行き違いになるかと思いきや、なぜか彼女はベンチの隅に腰を下ろし、「この辺り、好きでよく来るんですか?」と尋ねてきたのです。
私は少し緊張しつつ、「ええ、気分転換で散歩によく来ます」と返しました。
すると、「私も最近、引っ越してきて、大阪の街を知ろうと思って歩いているんです。
この中之島周辺は緑と水辺があって素敵ですね」と、彼女は目を細めました。
どうやら、彼女は数ヶ月前に関西に移り住んだばかりのようでした。
川面に揺れる二人のシルエット
その日は朝の涼やかな風が吹いて、川面がきらきらと輝いていました。
会話はごく当たり前の日常話にとどまっていたはずなのに、私は久しぶりに「雑談」と呼べるものを人と交わしていることに気づきました。
金融機関での嘱託勤務先では業務連絡ばかりで、子供たちには要件がある時にメールを送る程度、友人というほど親しい知人も今はあまりいない。
彼女との何気ない対話は、私が長い間失っていた何かを呼び覚ましているようでした。
再びの出会い
それから数日後、私はまた中之島を歩いていました。
ふと、図書館前の広場で見覚えのある姿を見つけました。
あの時の女性が、テラス席のような簡易カフェでコーヒーを飲んでいます。
声をかけるべきか迷いながら、私はゆっくり近づき、「こんにちは、あの時は朝市のことで…」と切り出しました。
彼女は驚いたようですが、にこりと微笑んで「またお会いしましたね。
あれから私、中之島が気に入ってしまって、よく来るようになったんです」と言いました。
見えない糸に導かれるように
こうして、私たちはたびたび中之島で顔を合わせるようになりました。
偶然が重なっているのか、同じ時間帯に同じ場所を歩いているのか、どちらにせよ、2度、3度と繰り返される邂逅はもう必然のように思えました。
ある日、思い切って私から「この辺りで落ち着いた喫茶店を知っていますか?」と尋ねました。
彼女は少し考えて、「確か、川沿いにこぢんまりしたカフェがあった気がします。
ご一緒に探してみませんか?」と提案してくれたのです。
晩年の心に生まれる小さな波紋
妻を亡くしてから、心の中は長く静かな湖面のようでした。
外から見れば穏やかかもしれないが、ほとんど変化がなく、刺激を閉ざした世界。
しかし、彼女との会話は、私の心に小さな波紋を描いていました。
若いころのような激しい胸の高鳴りではありません。
落ち着きの中にある微かな揺らぎ、かすかな期待、もう少し日々に彩りがあってもいいのではないかと思わせる感覚。
SNSを活用する若者たちとは異なり、私はまだガラケー時代から抜けきれぬようなスマホ運用しかできませんが、彼女はあまりテクノロジーに疎い私に興味深げに尋ね、「機械が得意なわけではないけれど、これからぼちぼち慣れようかな」と笑います。
二人で探した小さなカフェ
細い路地を曲がり、歩道橋をくぐり、ビルとビルの隙間を抜けると、確かに小さなカフェがありました。
ウッドデッキでコーヒーとサンドイッチを出す店で、テーブルはわずか数席。
そこに向かい合って腰を下ろし、彼女は「最近、やっと荷解きが終わって、この街で新しく暮らし始めた実感が湧いてきた」と話します。
私は「ずっと大阪に住んでいますが、こうして誰かと街の新しさを発見するのは久しぶりです」と答えました。
私たちは互いの生活ペースを尊重し合い、無理せず、ただ今目の前にある時間を共有する。
その感覚は、私にはとても心地よく感じられました。
結びに
中之島という水と緑に恵まれた都会のオアシスで、私は静かだった晩年の日々に小さな輝きを見出し始めています。
激しく燃え上がるような恋ではないかもしれません。
けれど、会話に混じる笑い声、たまに目が合ったときの穏やかな笑顔、そして「またここで会えるかもしれない」という小さな期待が、私の中で生き続ける力になっています。
58年生きてきて、もう心は動かないと思い込んでいました。
でも大阪・中之島で出会った、彼女との短い逢瀬は、私の心をそっと揺らし、再び日々に温かな光を与えつつあります。
次の週末、また私はこの川辺を歩いてみるでしょう。
もしかすると、あのベンチに、あるいはあの小さなカフェで、彼女と目が合うかもしれない。
そんな想像が、静かな私の暮らしに新しい音色を響かせているのです。