私は60代前半、京都の中心街にある小さなマンションでひとり暮らしをしています。 夫を亡くしてからしばらくは、寂しさに包まれながらも「もう恋愛なんて自分には縁がない」と思い込んでいました。 子どもは独立し、孫もいる身ですので、家族に支えてもらいながら静かに余生を送るものだと考えていたのです。 けれど、そんな私にも思いがけず“第二の春”が訪れるとは夢にも思いませんでした。 <h2>京都で迎えた第二の春</h2> 私は定年退職後、多少の年金とパート代で生計を立てています。 日々の暮らしに贅沢はできないですが、近所の商店街やスーパーを回りながら、たまに散歩がてら寺院やお庭を眺める時間が何よりの楽しみでした。 地元・京都は観光名所が多く、どこかを歩くたびに違った風情があって、心に沁みるのです。 夫と一緒に訪れた思い出の場所を巡るときは、少し切なさもこみ上げてきますが、その切なさはだんだんと「一人でも前を向こう」という勇気に変わっていきました。 そんなある日、マンションの近くにある小さな喫茶店へ入ったのが、私の転機でした。 静かな店内には、いい香りの珈琲と音量を絞ったジャズのレコード。 思わず長居してしまうほど落ち着く空気が漂っています。 そこで、隣のテーブルに座っていた男性が、ふと私の方を向いて「その本、私も持ってますよ」と声をかけてくれたのです。 <h2>軽い持病を抱えながらも</h2> 私には、長い間付き合っている軽い持病があります。 大事に至ることはないのですが、急な体調不良が起こるかもしれないと思うと、やはり外出先で人に迷惑をかけてしまわないかと気後れすることがありました。 そんな私の不安を察したのか、彼はいつも「ゆっくりで大丈夫ですよ」「できるときに会おう」と気遣ってくれるのです。 初めは遠慮もありましたが、彼の優しさに触れるたびに、私の心は少しずつ柔らかくなりました。 「人との交流は本来好きな性格だったな」と、あらためて自分を思い出す機会にもなったのです。 実は私は、人とのつながりを大切にすることが幸せの源だと、昔から信じていました。 夫を亡くしてからしばらくは塞ぎこんでしまっていましたが、やはり私の魂には、人と分かち合うことで生き生きとする何かがあるのだと思います。 <h2>パソコンは使えるがSNSは苦手</h2> 私は定年前まで事務の仕事をしていた関係で、パソコン操作はそれなりに慣れています。 文書作成やメールのやりとりは問題なくこなせるのですが、最近流行しているSNSには、どうもついていけません。 世代的にも抵抗があるというか、顔を出したり近況を頻繁に報告したりするのは少し気恥ずかしいのです。 しかし、彼はSNSが割と得意なようで、時々友人たちとメッセージアプリで写真を交換しているようでした。 最初は「私には無理よ」と思っていましたが、「ほら、こうやって写真を送るだけで、離れた家族や友人にも元気な姿を伝えられるんですよ」と彼に教えてもらい、私も少しずつ触れてみようと決意しました。 <h2>京都散策で育まれる想い</h2> 彼とは、週に一度か二度、お互いの都合と体調が合う日に、一緒に京都の街を散策するようになりました。 有名な観光地にはあまり行かず、昔ながらの商店街や小さな神社仏閣をゆるりと歩くのです。 ときには花が咲き誇るお寺を訪れ、一息つくためにベンチに腰掛けながら、季節や思い出話に花を咲かせることもあります。 そのときにふと、「もし夫が生きていたら、こんな風にまた一緒に京都を歩けただろうか」「私にこんな新しい出会いは訪れなかったかもしれないな」と思うことがあります。 あのときは、もう恋愛とは無縁だと思っていた自分を、今こうして支えてくれる人がいる。 それがどうしても不思議で、でもとてもあたたかい気持ちになるのです。 <h3>落ち込んだときの支え</h3> 私が体調を崩してしまったとき、彼は「無理しなくていいよ。家の近くのコンビニで買ってきた簡単なものでも良ければ、夕飯を一緒に食べようか」と声をかけてくれました。 「家族でもないのに、そんな遠慮はいけないわ」と一瞬戸惑いましたが、誰かがそばにいてくれる安心感は何ものにも代えがたく、ありがたいものです。 彼は押しつけがましいところがなく、常に私のペースに合わせてくれるので、気疲れせずに楽しくいられます。 自分は一人でも大丈夫だと思っていましたが、こうして人に頼りながら生きるのも悪くないかもしれない。 むしろ、そうやって一歩踏み出すからこそ、「まだまだ人生は面白い」と思えるようになるのだと気づきました。 <h2>恋心を再燃させる勇気</h2> 初めて出会ったあの日、彼から思いがけず声をかけられなかったら、私はもしかすると今も一人の時間に埋もれていたかもしれません。 夫を失った悲しみは、決して消えない傷として心に残っていますが、その傷と共に歩みを続けるうちに、人を愛する喜びが再び芽生えたのです。 京都の街を歩くたびに、私は夫と過ごした思い出を思い出すと同時に、今目の前にいる彼との新しい物語を感じるようになりました。 もう若くはありません。 けれど、この年齢だからこそわかる相手への思いやりや言葉にならない優しさがある、と気づかされます。 自分らしい一歩を踏み出すのに、年齢は関係ないのではないでしょうか。 私の第二の春は、京都の穏やかな風景の中で、ゆっくりと花開いています。 そして何より、心の中に再燃したこの恋心こそが、私をもっと前へ進ませてくれる大切なエネルギーになっているのだと思います。 もしも同じように「もう恋愛はいいや」と諦めかけている方がいたら、私はこっそり背中を押したいです。 年齢や環境がどうあれ、新しい出会いはいつどこで訪れるかわかりません。 私自身、夫を亡くしてからは絶望の淵にいたような気がしますが、今は毎日がささやかな喜びで満ちているのです。 京都で再燃した私の恋心は、決して大げさなものではありません。 けれど、これが私にとってのかけがえのない第二の春。 そして、一歩踏み出す勇気を与えてくれる「人生の秋」の醍醐味でもあります。
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