静寂と音色に包まれる日々

61歳を過ぎて、定年退職から数年が経ちました。
私はかつて、公立小学校で音楽教師を務めておりました。
四十年近く子どもたちに音の素晴らしさを伝え、彼らと共に合唱コンクールや発表会で喜びを分かち合いました。
そんな教壇に立つ日々も今は遠く、地方都市の端にひっそりと建つ自宅で、一人静かに暮らしております。
夫は数年前に病気で先立ち、娘は今、海外で自分の夢に向かって羽ばたいています。
私の毎日は、朝の軽い散歩、庭先のバラやハーブの世話、そして古いパソコンで天気予報や新しい音楽CDの評判を調べ、時にはYouTubeで懐かしのクラシック音楽を聴く程度の穏やかな時間に彩られています。
年金と貯蓄で金銭面に不自由はありませんが、決して贅沢はせず、慎ましやかな暮らしが心地良いと感じております。
腰には時折違和感が走るものの、軽いストレッチをしたり、少し遠出をして美術館や音楽ホールに足を運んだりすれば、心と身体が生き生きとする気がいたします。
家族や友人とオンラインで気軽につながる術に詳しくはありませんが、最低限のメールやウェブ検索には困らず、電話や手紙で近況を伝えることもまだまだ現役です。
私の心には、昔から静かに流れる調べがあります。
それはクラシックだったり、子どもたちが合唱した素朴な合唱曲だったり。
日々、その音の記憶に身を委ねながら、何も特別なドラマが起こることはないだろうと、どこかで思い込んでいました。
ところが、この春、その固い信念がゆらぐ出来事がありました。

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庭先で交わされる言葉と視線

春先、私の小さな庭でバラが蕾を膨らませ始めた頃でした。
朝の散歩がてら、少し遠い生花店まで足を伸ばし、花用の肥料を買い求めた帰り道、隣街にある図書館の前で一人の男性に声をかけられました。
彼は70歳前後でしょうか、白髪混じりの髪を短く整え、落ち着いた色合いのカーディガンを羽織っておりました。
手には楽譜が挟まれたクリアファイルを持っていて、図書館から出てきたばかりのようでした。
「すみません、そのバラの苗、素敵ですね。
お庭で育てているのですか」
そう、柔らかな声で尋ねられました。
「ええ、まあ、ちょっとした趣味で…」と戸惑いながらも返事をする私に、彼はにこやかな笑みを浮かべて、「私もバラが好きでしてね」と続けました。
その一言が、私の胸に小さな旋律を生んだのです。

音楽室の記憶が戻る

彼は近くの市民合唱団でバスパートを担当しているそうです。
退職後に趣味として始めた合唱が、今では生活の中心になっていると聞かされ、思わず私は「私も音楽教師をしていたんですよ」と告げました。
すると彼は嬉しそうに目を輝かせました。
「それは心強いですね。
よければ、今度うちの合唱団の練習を覗いてみませんか」
合唱団の練習など、ずいぶん久しぶりの響きでした。
あの音楽室の風景が、私の脳裏に鮮明に戻ってきます。
生徒たちの声、学校の机に積み重ねられた楽譜、ピアノの前で指揮棒を振った遠い日々。
懐かしさとともに、少し気恥ずかしい気持ちが湧き上がりましたが、彼の優しげなまなざしを前に断る理由も見当たりませんでした。
「そうですね、一度見学させていただけると嬉しいです」
私が返事をすると、彼は練習日程が書かれた小さなメモを手渡してくれました。

練習会場で流れる調和のハーモニー

週末の午後、市民ホールの一室へ足を運びました。
部屋に入ると、15人ほどの男女が譜面台や椅子を準備して、発声練習を始めようとしていました。
彼はすでに来ていて、私を見つけるとすぐに手を振り、団員たちに「この方は元音楽教師で、今日は見学に来てくださったんですよ」と紹介してくれました。
ちょっとした拍手が起こり、私は照れながら軽くお辞儀をしました。
指揮者の男性が静かにタクトを持ち上げると、ハミングから始まる優しいメロディが部屋いっぱいに広がりました。
その音色は、プロの合唱団には及ばないかもしれないけれど、人生経験を重ね、さまざまな葛藤を抱えながらも歌声で心を繋ぐ人々の「温かな音」でした。
私は椅子に腰かけ、その調べに聞き入るうち、胸がじんわりと温かくなっていくのを感じました。
ふと視線を感じて彼の方を見ると、彼は微笑みながら、私に「どうです?」と目で問いかけているようでした。
私は言葉にせず、ただ静かに微笑み返しました。

音符から紡がれる新たな絆

練習が終わり、団員たちは雑談やお茶を楽しみ始めました。
私は彼に近づき、「素敵な合唱ですね」と率直な感想を伝えました。
彼は「ありがとう」と答え、「あなたが来てくれると思ったら、なんだか今日は特別に声が出た気がします」と笑いました。
その瞬間、私の心は微かな緊張と喜びに包まれました。
それから私たちは、庭のバラの話、クラシック曲の好きな楽章について語り合いました。
自宅ではYouTubeで聴いているお気に入りの曲を彼に伝えると、「その曲は僕たちのレパートリーにもあるから、今度合わせてみましょう」と提案されました。
SNSに詳しくない私に、彼は「メールがあれば十分です。
練習日を連絡するので、ぜひまた来てください」と言い、私の古いメモ帳にメールアドレスを書いて渡してくれました。

人生の後半に響く和音

あれから数ヶ月が経ち、私は時折、彼らの合唱練習に足を運ぶようになりました。
軽い腰痛を抱えながらも、椅子に座って歌声に浸っていると、心が軽やかになっていくのを感じます。
庭のバラも美しく咲き始め、彼に差し入れた小さな一輪が「ありがとう」という言葉以上の意味を持っているような気がしてなりません。
娘にはメールで、「最近、合唱団で歌声を聴いている」と知らせたところ、喜びと驚きの返信が届きました。
「お母さんがまた音楽に関わるなんて嬉しい。
それに素敵な出会いがあったのね」
娘の言葉に、私は少し頬を染めました。
恋愛と呼ぶには慎ましすぎるかもしれません。
けれど、心がわずかに弾み、日々に待ち遠しさが加わるのは、紛れもない事実です。
私たちは派手な交際をする若者ではなく、すでに多くの経験をくぐり抜けてきた大人です。
けれど、その分だけ、相手の沈黙や微笑み、そして何気ない言葉に深みを感じ取ることができます。
合唱団の練習後、こぢんまりとした喫茶店で紅茶を飲みながら、クラシックコンサートの話題に花を咲かせる。
たったそれだけのことで、心が温まり、世界が少し色づくのです。
こうして、60代前半の私たちは、人生の後半戦でささやかな和音を奏で始めました。
それは、若い頃には気づかなかった穏やかな幸福、そして静かな情熱。
音楽と静寂が入り混じる日々の中で、私は再び、自分の中の調べを聴き始めています。
この先、どのような旋律が紡がれるかは分かりません。
けれど、今、こうして紡がれた一つの音符が、私たちの人生をより豊かにしてくれることだけは、確かに感じられるのです。

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