64歳の春、もう一度花開く私たちの静かな恋

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はじめに

 64歳になった今、まさかこの胸が再び高鳴る日が来るとは思いませんでした。
5年前に妻を亡くし、それからはずっと一人暮らし。
息子は30歳になり、海外で暮らしています。
定期的にビデオ通話をし、近況を報告し合うくらいで、基本的に私は閑静な住宅街で静かに日々を過ごしていました。
それが、近所の小さなパン屋で働く、63歳の彼女と出会ってから、日常がほんの少しずつ、鮮やかな彩りを取り戻し始めたのです。

出会いのきっかけ

小さなパン屋での偶然

 彼女との出会いは、決してドラマチックなものではありませんでした。
毎週火曜の朝、私は近くのパン屋でクロワッサンを買うのが習慣です。
軽い朝食として、バター控えめのパンを選び、ハーブティーと一緒に庭先で食べるのが小さな楽しみでした。
ある日、店のレジに新しい女性店員が立っていて、「おはようございます」と穏やかな声をかけてくれたのが彼女との初対面でした。
彼女は10年前に離婚し、子どもはおらず、一人暮らし。
私たちはお互いの背後にある年月を感じ取りながらも、最初はただ、パンと笑顔を交換する客と店員の間柄に過ぎませんでした。

少しずつ近づく距離

通い慣れた公園での再会

 その後、ある週末、私は膝の軽い関節痛を和らげるために、近所の公園でゆっくりとストレッチをしていました。
そこへ、彼女が散歩に来ていたのです。
彼女は軽い不眠に悩んでおり、夜はハーブティーを試していると言っていました。
「ゆっくり歩くと、少しは気分が晴れる気がして」と微笑む彼女に、「僕も膝がちょっと痛むので、無理のない運動が欠かせないんですよ」と返すと、不思議な共通点が私たちを和ませました。
そこから、散歩のたびに顔を合わせると軽く挨拶を交わし、時には公園のベンチで数分おしゃべりするようになりました。

互いの過去と今

失われた時間と、再生する日常

 私は定年退職後、学校管理職としての長いキャリアを終え、年金暮らしで生活しています。
特別贅沢はできませんが、衣食住には困りません。
彼女はパン屋のパートで生計を立てていて、元々はホテルのラウンジで接客をしていたらしいのですが、離婚後は規模の小さな職場を選んだといいます。
「小さなパン屋だと、お客様と直接会話ができて、なんだか温かいんです」と彼女は微笑みました。
私も「校舎の廊下を歩くとき、生徒たちの声が聞こえると心が和んだものです」と昔話を少しだけ打ち明けました。
そうした人生の振り返りを、ゆっくりと共有する時間が心地よく感じられたのです。

テクノロジーとの距離

スマホを通して広がる小さな世界

 私の息子は海外に暮らしており、スマホで週に一度ビデオ通話をしています。
操作にはそれなりに慣れていて、生活の情報もネットで調べたりします。
一方、彼女はスマホを持ってはいますが、使いこなすにはまだ不慣れらしく、ネットでパンのレシピを見る際も戸惑うようです。
「オンラインで材料を注文してみたいんだけど、なかなか怖くて。
変なところを押したらどうなるんでしょうね」と半ば冗談めかして言う彼女に、「慣れれば簡単ですよ。
今度、一緒に画面を見ながら説明しましょう」と私は提案しました。
「ええ、助かります。
あなたと一緒なら心強いです」と、彼女はほっとしたような顔を見せました。

おだやかな時間の共有

ベンチでの穏やかなひととき

 週に一度、仕事帰りの彼女と公園で待ち合わせて、短いおしゃべりをするのが習慣になりました。
軽いパンをかじりながら、「今日は店でこんな面白いお客さんが来ました」と彼女が話せば、私は「息子からこんな写真が届いてね」とスマホを彼女に見せます。
異国の風景に驚く彼女の横顔を見ると、なんだか私まで新鮮な気持ちになれるのです。
年齢を重ねると、日常は淡々としていて、新鮮味が薄れることもあります。
しかし、誰かと小さな発見を共有するだけで、薄くなった色彩がもう一度鮮明になるような気がしました。

お互いを思いやる気持ち

健康を気遣い、ペースを合わせる

 彼女は私が膝を痛めていることを知ってからは、公園を一周するペースを私に合わせてくれます。
私も、彼女が夜眠りづらいことを知ってからは、夕方早めに会うように予定を調整し、無理をさせないようにしています。
こうした小さな配慮の積み重ねが、遠い昔には当たり前だった「相手を思いやる」感覚を、再び呼び起こしてくれるようです。
大掛かりなデートや贅沢な食事はありませんが、この静かな気配りの心地よさは、若い頃には得られなかった深みを伴っています。

おわりに

 64歳と63歳。
人生の大部分を歩み終え、悲しみや喪失も経験してきました。
けれど、晩年に差し掛かる今、再び心が通い合う相手と出会えたことは、私にとって大きな喜びです。
テクノロジーに戸惑いながらも支え合い、健康に気をつけながら小さな冒険をする。
そんな二人の日常は、春の柔らかな日差しのように、穏やかで暖かい。
これから先、いつまで続くかはわかりませんが、今はただ、この心地よい時間を大切にしていきたいと思っています。

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