はじめに
78歳になった今、私が人生に新たな実りを期待することなど、ほとんどありませんでした。
妻を看取り、子供たちは遠方でそれぞれの生活を営み、今は年金と少しの貯蓄で静かな余生を送っています。
毎朝、少しだけ体操をし、簡素な朝食を取り、午後は近くの公園でベンチに座って鳥の声を聞く。
それが当たり前の生活でした。
しかし、この秋、地域のコミュニティガーデンで始まった「シニア向け菜園講座」に参加したことが、私の心に予期せぬ温かさをもたらし始めたのです。
そこで出会った彼女、77歳の女性は、優しい眼差しと穏やかな微笑みを持つ方でした。
出会いのきっかけ
菜園講座は月に数回、コミュニティガーデンの片隅で開かれ、初心者向けにハーブやミニ野菜の育て方を教えてくれます。
私は「少しでも手を動かして、心身を活性化させよう」と思い参加しました。
初日の講座では、インストラクターが「今日はバジルとミニトマトの苗を植えます」と言いました。
隣の畝で、彼女が慣れない手つきで土を掘り返しているのに気づき、私は声をかけました。
「土が固いですね、ここをもう少し柔らかくしましょうか。」
彼女は少し驚いたように顔を上げ、「ありがとうございます。
こういう作業、ほとんど初めてなもので」と照れたように笑いました。
はじめての会話
休憩時間に、私たちは園内の木陰に腰掛け、紙コップの麦茶をすすりました。
彼女は長年事務職を務め、定年後は一人暮らしを始めたそうです。
伴侶を早くに亡くしたらしく、それ以来ずっと一人で頑張ってきたといいます。
「一人で暮らしていると、会話が少なくなってしまって。
それで、こういう講座に参加してみたんです」と彼女。
私も似たような境遇で、子供たちは年に数回顔を見せる程度。
「私も、少しでも新しいことを始めてみようと思って来たんです。
土いじりは子供の頃以来ですよ」と話すと、彼女は「それなら、今から一緒に上手になっていけますね」と微笑みました。
互いの暮らしを知る
数回講座に通ううち、私たちは一緒に作業することが多くなりました。
畑を耕し、苗に水をやり、雑草を抜く。
そんな地道な作業の合間、彼女は「最近、膝が少し痛むんです」とこぼします。
私も腰痛持ちで、長くしゃがんでいると辛いときがあります。
「無理せず、適宜休みましょう。
あそこにベンチがありますから」と私が提案すると、彼女は「ありがとうございます。
焦らずやれば、少しずつ慣れてくるかもしれませんね」と頷きます。
年齢に合わせたペースで、お互いを気遣いながら土と触れ合う時間は、まるで心の耕し直しをしているようでした。
テクノロジーとの距離
講座に参加する中で、「このハーブの栽培方法、ネットで動画を見たら分かりやすいかもしれませんよ」と私が言うと、彼女は「スマホは持っているんですが、あまり使いこなせなくて…」と困り顔をします。
私は孫が送ってくれる写真を見たり、ニュースサイトをチェックしたりするくらいはできます。
「簡単な使い方なら、私もお教えできますよ」と申し出ると、「それは助かります」と少し安堵したような笑顔を向けてくれました。
お互い、テクノロジーには不慣れですが、二人で試してみれば不思議と心強く感じます。
小さな日常の変化
講座がない日でも、彼女と一緒にガーデンへ足を運ぶようになりました。
「今日は天気がいいですね、ちゃんと帽子をかぶってきましたか?」と彼女が尋ねれば、私は「もちろん、日差しが強いですからね」と返します。
作業後には近くの小さな喫茶店でお茶を飲み、育てている野菜やハーブの話題で盛り上がる。
私が「もう少ししたら、このバジルで何か料理ができるかな」と言うと、彼女は「私、簡単なパスタなら作れますよ」と嬉しそうに答えました。
そんなやりとりの中に、かつて失ってしまった「誰かとの分かち合い」の温もりがほんのり蘇ってくるのです。
健康と穏やかな関係
彼女は小柄で華奢な体つきですが、柔らかな笑顔で私の心を和ませてくれます。
私は背中が少し曲がり気味で、以前ほど力仕事は得意ではありません。
お互い、加齢による不便さを抱えながらも、その不便さを笑い飛ばしたり、気遣い合ったりできる。
「ゆっくり進めましょう」とか、「無理はしないようにね」といった言葉は、まるでお互いを守る手すりのようです。
若い頃のような情熱的な関係とは違う、穏やかな絆が少しずつ編み上がっていくように感じます。
おわりに
78歳と77歳。
人生の晩年、既に多くの収穫を得て、失い、また諦めてきた年月を経て、今、土を耕し、植物を育てることで、心にも小さな芽が出ているようです。
ふたりで笑い合い、テクノロジーに戸惑いながらも教え合い、膝や腰を気遣い、日なたと日陰を行き来する。
そんなささやかな日常が、秋の柔らかな日差しの中で静かに実っていきます。
これから先、どれほど一緒にこのガーデンを訪れるかは分からないけれど、今この瞬間が、私たちの心をふたたび耕し、豊かな気配をもたらしているのは確かです。