はじめに
63歳を迎えた私は、これまで独身を貫いてきました。
長年大学教授として勤めていましたが、数年前に定年退職し、今は週に数回非常勤講師として研究室を訪れ、若い学生たちの相談相手になる程度の穏やかな日常を送っています。
家族はおらず、長年一人暮らし。
経済的には安定していて、特に大きな不自由もありません。
けれど、心のどこかに微かな物足りなさが残ることは否定できませんでした。
そんなある日、地域のカルチャーセンターで始まった陶芸体験教室に参加したことで、私の心に新たな彩りが差し込んできました。
出会いのきっかけ
陶芸体験教室の講師は61歳の女性で、穏やかな中にも社交的な雰囲気を漂わせる方でした。
彼女は一度結婚したことがあるものの、子供はおらず、今は一人暮らしを続けながら、小さな陶芸教室を自宅近くで主宰しているそうです。
華美な装いではなく、淡い色のエプロンを身につけ、土を扱う手もどこか優しげな所作がありました。
最初は多くの受講者たちの一人として、私も静かに指導を受けていましたが、ある日の休憩時間、彼女が私に声をかけてくれたのです。
はじめての会話
「形、なかなかきれいに整っていますね。」
彼女はそう言って、私が成形した小さな茶碗の輪郭を眺めました。
私は照れくさそうに「昔、研究室で使う器具を扱っていた名残でしょうか。
手先の細かい作業は嫌いではないんです」と返すと、彼女は微笑みながら、「それは心強いです。
土は裏切らない、でも扱う人間の気持ちを映し出すんですよ」と続けました。
その言葉が、私の耳元で心地よく響きました。
軽い難聴がある私は補聴器をつけていますが、彼女の声ははっきりと、ゆっくりと届き、無理なく言葉を拾えました。
互いの暮らしを知る
教室が終わったあと、近くの喫茶店でお茶をする機会がありました。
私がパソコンやスマホを問題なく使いこなせることを話すと、彼女は少し恥ずかしそうに「私はスマホは一応使えますが、パソコンは苦手なんです。
オンラインで陶芸の講座をやってみたい気持ちはあるのですが、抵抗があって」と打ち明けました。
私は「慣れれば難しくありません。
よければ、今度一緒にやり方を試してみましょう」と提案します。
彼女は「助かります。
自分一人ではなかなか踏み出せなくて」と微笑みました。
健康と気遣い
彼女は膝に軽い関節痛を抱えており、長時間立ってろくろを回すのは少し辛い日もあるようです。
私自身は軽い難聴があるものの、身体は比較的元気です。
「今日は少し膝が痛むんです」と言う彼女に、私は「では座って成形できる高さに調整してみましょう」と声をかけます。
無理をさせないよう、道具を少しずつ彼女の目の前に配置すると、「ありがとうございます。
あなたがいるとなんだか気持ちが楽になります」と穏やかに笑いました。
その笑顔が、陶土の柔らかさにも似た優しさを放ち、私の心を温かく包み込むようでした。
小さな目標と新しい楽しみ
彼女が主宰する陶芸教室では、季節ごとに小さな展示会を開くそうです。
「次は初夏の展示会で、お茶碗をテーマにします。
あなたも出品してみませんか?」と彼女が誘います。
私は最初、躊躇しました。
習ったばかりで、人様に見せるほどの出来栄えではないと感じたからです。
けれど、「うまくなくても、あなたが心を込めて作ったものなら、それはきっと何かを伝えるはずですよ」と彼女は励まします。
その言葉に背中を押され、私はゆっくりと首を縦に振りました。
テクノロジーを通して広がる世界
後日、彼女の自宅教室の一角で、パソコンを立ち上げてオンライン会議ツールを試してみました。
「意外とシンプルですね」と彼女は感心した様子。
オンラインで簡単な陶芸の説明をする「お試し講座」を計画しているとのこと。
「初めてのことは怖いけれど、あなたと試せば、自信がついてきました」と彼女は言います。
私も「あなたが進もうとする姿を見ていると、私まで元気が出ますよ」と返しました。
歳をとっても、新しいことに挑戦する力は、誰かが少し背中を押してくれれば芽吹くのだと感じました。
おわりに
63歳と61歳という年齢は、人生の折り返しどころか、いよいよ晩年へと足を踏み入れる時期だと思っていました。
しかし、陶芸という新たな世界で彼女と出会い、補聴器越しに澄んだ声を聞き、関節痛や不慣れなテクノロジーを笑い合いながら克服していく過程は、私の人生に新たな光をもたらしています。
派手なロマンスはないかもしれません。
けれど、柔らかい土を成形するように、ゆっくりと、心を丸めて形づくっていく関係は、この上なく貴重なものです。
初夏の展示会には、私たち二人の想いが詰まった小さな器が、きっと並ぶことでしょう。
そして、その器を手にする誰かが、私たちの新しい物語の始まりを、ほんのりと感じ取ってくれるかもしれません。