東京・上野で再び芽生えた熟年の恋

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はじめに

私は55歳の女性です。
5年前に夫と別れ、息子も娘も独立してからは、一人暮らしがすっかり板についてきました。
中小企業でのパート事務員という安定した仕事はあるものの、家に帰れば誰も待っていない静かな部屋で、日々は淡々と過ぎていきます。
この歳になると、恋愛なんて自分にはもう縁遠いものだと思っていました。
でも、その固定観念は、東京・上野でふとした偶然から崩れ始めました。

朝のウォーキングから始まる小さな変化

私は血圧管理のため、毎朝早起きして近所をウォーキングします。
少し前からコースを変えて、上野公園まで足を伸ばすようになりました。
週末の公園は、ゆっくり過ごす家族連れや外国人観光客で賑やかですが、平日の早朝は静寂そのもの。
清々しい空気の中、ゆっくりと並木道を歩くのが私のささやかな楽しみです。
その日も、いつものように公園内をぐるりと巡り、噴水の近くにあるベンチで一息ついていました。

偶然の出会い

そのベンチで私がスマートフォンをいじりながらSNSをチェックしていると、見知らぬ男性が声をかけてきました。
「おはようございます、この辺り、すっかり秋めいてきましたね。」
初めはただの挨拶かと思いましたが、顔を上げると、60歳前後くらいの、柔和な表情をした男性が立っていました。
年相応の薄いグレーの髪、少し日に焼けた肌、そして洒落たチェック柄のシャツ。
思わず、「本当ですね、涼しくなって歩きやすい季節です」と返しました。
彼は公園近くで個人経営の喫茶店を営んでいるそうで、朝は仕込み前にウォーキングをするのが日課とのことでした。

心の中のさざめき

その日は立ち話で終わったのですが、翌日、私が同じ時間に噴水近くに行くと、彼がまたいました。
「おはよう、昨日もお会いしましたね。」
なんとも不思議なご縁です。
こうして2、3日続くうちに、私たちは自然とお互いの存在を意識するようになりました。
私もSNSこそ使いますが、普段の会話は職場の同僚か子供たちとのLINEくらい。
久々に、赤の他人と顔を合わせて雑談を交わす、その温かな時間がとても心地よかったのです。

過去と今をつなぐカウンター席

ある朝、彼は私に「もしお時間があれば、うちの店で朝のコーヒーでも飲んでいきませんか」と誘ってくれました。
その喫茶店は上野駅から少し離れた路地裏にあり、小ぶりながら落ち着いた雰囲気の店構えでした。
店内にはレトロなポスターや古い棚が並び、木の香りが漂うカウンター席に私は腰をおろしました。
彼は朝の準備が一段落したのか、ゆっくりと丁寧にコーヒーを淹れてくれます。
豆を挽く心地よい音、湯気の立つサイフォン、そして彼の優しい笑顔。
その瞬間、私はこれまで感じていなかった胸の奥の温もりに気づかされました。

過去の痛みと新たなときめき

5年前、離婚してから私は自分の人生をある程度あきらめていました。
恋愛感情なんてもう遠のいたものだと蓋をしていたのです。
けれど、彼と過ごすひとときは、そんな頑なな心の扉を少しずつ緩めていきました。
喫茶店のカウンターで、彼は静かに自分の人生を語りました。
若い頃は企業戦士として忙しく働き、家庭を顧みる余裕もなかったそうです。
定年退職後に喫茶店を始め、今ようやく「生身の自分」で人と向き合えるようになったと言います。
その言葉を聞きながら、私も自分の失敗や傷ついた心を思い返しました。
しかし不思議と、彼と話すうちにそれは暗い過去ではなく、今の自分を形作った大切な礎のように感じられてきたのです。

パートタイムと細やかな暮らしの中で

私の暮らしは華やかさとは無縁です。
パート勤務でそれほど裕福ではありません。
子供たちも独立して、私は自由と言えば自由ですが、どこか心にぽっかり穴が開いていました。
しかし、彼と出会い、公園で交わした何気ない挨拶、喫茶店で嗅いだコーヒーの香り、穏やかに流れる時間は、その穴を少しずつ満たしています。
私がスマートフォンで写真を撮り、LINEで子供たちに「上野で新しく知り合った人がいるの」と小さく報告すると、子供たちは驚きつつも「いいじゃない」と背中を押してくれました。

新しい季節に向けて

私たちはまだ恋人同士とは言えません。
でも、彼の店で朝のコーヒーを飲み、公園を一緒に歩き、時には互いの過去を静かに受け止めながら笑い合う、そんな関係が続いています。
人生の後半戦に入った私たちだからこそ、価値観も、ペースも似ている部分が多いのかもしれません。
パソコンが苦手な私ですが、スマートフォンで撮った写真をSNSに上げ、コメントをやりとりする中で、若い頃にはなかった形の繋がりを感じられます。
これから紅葉が深まる上野公園を歩くたびに、私の心は新しい色彩を帯びていくようです。

結びに

東京・上野という、観光客や芸術、歴史と人が行き交う場所で、私は思いがけず心の再生を経験しています。
これからどんな形になるかは分からないけれど、熟年の恋の始まりをゆっくりと受け止めていきたいと思います。
朝のひんやりとした空気の中、噴水を見つめる私の横で、彼も同じ空気を吸っている。
それだけで、今日が昨日と違う特別な一日だと感じるのです。

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