67歳になった私が、もう一度誰かに心を惹かれるなんて思ってもみませんでした。
妻を亡くしてから、もう7年。
子どもたちは独立し、私は静かな住宅街で一人暮らしを続けています。
朝はコーヒーを淹れ、新聞を読んで、午後には近所を散歩する――そんな単調な日々が当たり前になっていた頃、地域のコミュニティセンターで出会った一人の女性が、私の日常を少しずつ彩り始めたのです。
彼女は66歳。
少しだけ年下ですが、同じような人生の節目を通り越し、今は穏やかな暮らしを求めているように見えました。
出会いのきっかけ
私たちが顔を合わせるようになったのは、地域のコミュニティセンターが主催する絵画教室でした。
定年後、「何か新しい趣味を持ったらどうですか」という娘の勧めもあり、水彩画を始めたのがきっかけでした。
私は技術もなく、下手なりに筆を動かし、風景を描いては笑われるような初心者。
彼女もまた、「長年、お店の経理をしてきたのだけれど、定年後に何か手を動かす楽しみが欲しくて」と、クレヨンのような柔らかなタッチで花々を描いていました。
その優しい色づかいに、私はなんとなく心惹かれていました。
はじめての会話
初めて言葉を交わしたのは、秋色に染まるセンター近くの並木道でした。
教室帰り、彼女が手元の画用紙を眺めて首をかしげているのを見て、「その花の色、とても柔らかくて素敵ですね」と声をかけたのです。
彼女は少し驚いたように顔を上げ、「あなたも同じクラスの方ですよね?私、まだ始めたばかりで何が何やら…」と照れたように笑いました。
私も「私こそ、全然上手くないんですよ。
絵筆を持つなんて高校以来ですからね」と返します。
そのとき初めて、私たちはお互いに名前を名乗りました。
静かな並木道に、控えめな笑い声が溶け込んでゆくようでした。
過去とこれから
私はかつてメーカーの営業として国内を飛び回っていました。
妻が亡くなった後も、子どもたちは心配してときおり電話をくれますが、彼らには彼らの生活があります。
彼女は独身のままキャリアを積んできた方で、定年後に退職金と年金で、なんとか質素な一人暮らしを送っているそうです。
「家に帰ると、誰もいない静かな空間が広がっていて。
それもまた悪くないけれど、たまには誰かと話したい時もあるの」と彼女は小さく微笑みました。
私も、「わかります。
家で一人コーヒーを飲んでいると、時々ふっと寂しさがこみ上げることがあります」と素直な気持ちを口にします。
そんな、同じような寂しさや静けさを知っている相手がいることが、なぜか安心につながっていきました。
テクノロジーとの付き合い方
私も彼女もスマートフォンは使えるものの、そこまで積極的にSNSを駆使するタイプではありません。
時折、娘が送ってくれる写真を眺めたり、ニュースアプリを開く程度です。
彼女は最近、友人からLINEのグループ招待を受けたそうですが、「スタンプを送るタイミングがわからなくて困っている」など、小さな悩みを打ち明けてくれます。
私も新しい機能を使いこなしているわけではありませんが、「送る側は気にしていませんよ。
自分が送りたいと思ったときに送ればいい」と伝えると、「そうか、自由でいいんですね」と目を細めました。
こんな風に、今さらながらテクノロジーを前に戸惑う自分たちを笑い合えることが、ほのぼのとしていて、悪くない気がしました。
ゆっくり紡がれる時間
絵画教室が終わると、近所の喫茶店で軽くお茶をすることが増えました。
コーヒーと、小さなクッキー。
健康を考えると甘いものは控えなければいけないのですが、「たまには、いいでしょう」と彼女は言って、私に一枚、クッキーを差し出します。
「ここでこうしてお話ししていると、もう少し絵を上手く描きたいなって思えてくるんです」と彼女が言えば、私も「僕も、あなたの柔らかい色使いを見ていると、もっと心を緩めて筆を動かしてみようと思います」と返します。
それは、かつて若かった頃のような激情の恋ではなく、静かにゆっくりと育つ、淡い芽のような心地です。
お互いを思いやる気持ち
先日、私が少し膝を痛めてしまい、歩くのがつらい日がありました。
普段は余裕を持って歩いている散歩道も、その日は足取りが重くなります。
彼女に「すみません、ゆっくり行きましょう」と声をかけると、「もちろん、無理せずいきましょう」と、私より少し前を歩いていた彼女は振り返りながら微笑みました。
そんな、さりげない思いやりのやりとりは、言葉には出さなくても伝わるものです。
大げさな優しさではないけれど、その穏やかな気遣いに私は胸がじんわりと温かくなりました。
おわりに
67歳と66歳。
人生のほとんどを過ぎて、いまさら何を求めるか、と思う時期もありました。
けれど、こうして誰かと少しずつ心を通わせ、秋風が肌をかすめる公園や喫茶店で言葉を交わす日々は、かつて失われたと思っていた色彩を、もう一度取り戻してくれます。
これから先、どれほど一緒に歩けるかはわかりません。
けれど、今この時、私たちの間に生まれた穏やかな恋模様は、ゆっくりと色づく秋の葉のように、静かに、確かに深まっているのを感じるのです。