72歳の春、静かに芽吹くふたりの心

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はじめに

 72歳の私が、まさかこの年になって新しい人間関係に胸をときめかせる日が来るとは思っていませんでした。
妻を亡くしてからもう8年。
息子や娘たちは忙しく、年に数度の電話と年賀状のやり取りくらいで、普段は一人静かに過ごしていました。
健康に気を使いながら、朝は近所を散歩し、午後は図書館で新聞を読み、夕方にはささやかな夕食をとる。
そんな穏やかで単調な日々に、ある春の朝、ふとしたきっかけで彩りが差し込むことになるとは――
出会いは、市民センターが主催する「シニア向けヨガクラス」でした。

出会いのきっかけ

 まだ肌寒さが残る春先、医者から「体を適度に動かした方がいいですよ」と勧められ、軽い運動を探していた私。
ウォーキングは続けていましたが、少し別の刺激も欲しくなり、思い切ってヨガクラスに申し込んでみたのです。
教室に入ると、そこには同年代の参加者が十数名ほど集まっていました。
その中で、ひときわ柔らかな表情をした女性が彼女です。
71歳と聞きました。
少し控えめで、でも周囲には自然と穏やかな空気を運んでくるような存在感がありました。

初めての会話

 ヨガマットを広げると、インストラクターが「今日は初心者でもできる簡単なポーズから始めましょう」と声を掛けました。
深呼吸と、軽いストレッチ。
周りにならって呼吸を合わせていると、隣のマットから、彼女が「息を合わせるのって難しいですね」と、微笑みながら話しかけてくれました。
「ええ、初めてで緊張しているせいか、ちょっと肩が強張ってしまって」と答えると、彼女は「私も同じです。
でも、こうしてゆっくり始められるのがありがたいですね」と優しく応じてくれました。
その言葉に、私の中の緊張が少しほぐれ、自然な笑みがこぼれました。

過去との折り合い

 休憩時間に軽く言葉を交わす中で、彼女が長らく未亡人で、一人暮らしをしていることを知りました。
かつて勤めていた事務所を定年退職し、穏やかな年金生活を送りながら、最近になってヨガを始めたとのこと。
「家にいると、つい一日中テレビを見てしまって。
でも体を動かしてみると、心が軽くなるような気がします」と彼女は言います。
私も似たようなものです。
妻を失い、子どもたちはそれぞれの生活。
静かな暮らしに不満はないものの、何か物足りなさを感じていた私は、彼女の言葉に深く共感しました。

テクノロジーと新しい世界

 彼女はスマートフォンを持っていましたが、「メール以外はほとんど使いこなせないんですよ」と打ち明けます。
私は動画共有サイトで簡単な運動動画を見たり、孫たちの写真を受け取ったりはできる程度には使えますが、まだまだ詳しいとはいえません。
「もしよければ、今度一緒に使い方を試してみませんか?」と私が提案すると、彼女は驚いたように顔を上げ、「あなたのような方に教えてもらえたら心強いです」とほんのり頬を染めました。
年齢を重ねてから、人と何かを一緒に学べるということが、こんなに嬉しいとは思いもしませんでした。

健康と気遣い

 ヨガクラスが終わった後、彼女が「足首が少し硬くて、ポーズがとりづらかった」とこぼしました。
私も腰に古傷があり、無理な動きは避けなければなりません。
「無理しなくていいんですよ。
インストラクターさんに軽めの代替ポーズを相談してみるといいかもしれません」と言うと、彼女は「そうですね、焦らず続けてみます」と安心したような表情を見せます。
この「焦らず」という言葉が、私たちにとってしっくりくるように思えました。
若いころのような激しさはなくとも、今の私たちには、ゆっくりと相手を思いやる余裕があります。

小さな日常の共有

 ヨガクラスの帰り道、彼女と私は同じ方向へ歩くことがわかりました。
「よければ、駅前のカフェでお茶でもどうですか」と私が声をかけると、彼女は「ぜひ」と微笑みます。
小さなカフェでハーブティーを注文し、「最近、この辺りに新しいパン屋ができたそうですよ」と彼女が話せば、「ああ、先日散歩中に見つけたんです。
今度一緒に行ってみませんか」と私が返します。
パン屋、カフェ、散歩道。
そんな些細な日常の話題でも、彼女と語り合うと心がほぐれ、風景がやわらかく見えてくるのです。

おわりに

 72歳と71歳、もう人生の大半は過ぎ去り、後には静かな夕暮れが続くばかり――と思っていた私にとって、彼女との出会いは、春の日差しのように心を温めてくれました。
ヨガクラスで呼吸を合わせ、帰り道に並んで歩き、カフェでお茶を飲む。
決して大きな出来事ではありませんが、そうした一瞬一瞬が私の内側で小さな芽となってふくらんでいく気がするのです。
これから先、どれほど一緒に過ごせるかはわかりません。
けれど、今この時、穏やかな呼吸のリズムの中で、ふたりの心に静かに芽吹く温もりを大切に育てていきたいと感じています。

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