75歳の夏、そっと寄り添うふたりの時間

目次

はじめに

 75歳になった今、夏の陽射しは少しまぶしすぎる気がしています。
若いころはあんなにも外へ飛び出して、旅行やレジャーに励んでいたのに、今は窓越しに見える青空を眺めながら、静かに紅茶をすする毎日。
妻を亡くしてから10年以上が経ち、娘や息子も忙しく各地で暮らしているので、連絡はたまの電話とメール程度。
そんな私が、近所の文化センターで出会った一人の女性に、心を和ませられる日が来るとは夢にも思いませんでした。

出会いのきっかけ

 文化センターでは、シニア向けに「昔懐かしの音楽を楽しむ会」という小さなイベントが月に一度開催されます。
流れるのは昭和の歌謡曲やフォークソング。
懐かしいメロディを聴きながら、来場者はお茶を飲み、お菓子をつまみ、当時の思い出を語り合うのです。
その日、私が会場の一角で紅茶を手にぼんやりしていると、74歳だという彼女が隣に腰掛けてきました。
「あなたも、この曲懐かしいですか?」と微笑む彼女。
確かに、私が20代のころによく耳にした曲が流れていました。
「ええ、とても懐かしいですね」と答えると、彼女は「私も若いころ、これを聴いて友人とよくドライブしたんですよ」と楽しそうに目を細めました。

はじめての会話

 静かに流れるギターの調べを背景に、私たちは少しずつ言葉を交わし始めました。
彼女は若いころ銀行で働いていたそうで、結婚歴はなく、定年まで勤め上げてからこの街へ引っ越して来たと言います。
私はメーカーの研究職を早期退職し、妻との二人暮らしを楽しむ予定でしたが、その妻はほどなく病に倒れ、私はその後一人で暮らし続けていました。
「私は一人の時間が長くて、誰かとちょっとした思い出を共有したくて、こうして昔の音楽を聴きに来ているんです」と彼女は静かに話します。
「私も似たようなものです。
懐かしい音楽が、少しだけ昔を思い出させてくれて、気持ちが柔らかくなるんですよ」と、私は胸の中に微かなぬくもりが広がるのを感じながら答えました。

互いの暮らしとこれから

 その日を境に、イベント後に少しお茶をして帰るのが私たちの小さな習慣になりました。
彼女はマンションで一人暮らしで、定期的に近くのスーパーでパートをしているそうです。
「ずっと家にいると、なんだか気が滅入ってしまうので、働けるうちは働こうと思って」と笑います。
私もガーデニングが趣味で、小さな庭に野菜や花を植えては、成長を楽しむ日々。
「この前、ミニトマトがたくさん実ったんですよ。
もしよければ、お裾分けしましょうか」と提案すると、彼女は「まあ、それは嬉しいわ」と頬を緩めます。
そんなふうに、ささやかな日常を分かち合う関係が、ひとつずつ紡がれていきました。

テクノロジーとの関わり

 私たちは二人ともスマートフォンを使っていますが、ほとんど通話と写真撮影程度で、SNSやアプリの使いこなしには疎い方です。
先日、彼女が「この前イベントで撮った写真をスマホで見ようと思ったら、変な画面になってしまって…」と困り顔をしていました。
「よければ一緒に確認しましょう」と、私が画面を見てみると、単純にアルバム表示が切り替わっていただけ。
解決すると、彼女は「あなたは何でも落ち着いて対処してくれますね」と嬉しそうです。
「いえいえ、私もよく分からないことが多いですよ。
今度、音楽をスマホで聴く方法も一緒に考えてみましょうか」と提案すると、「ええ、二人なら安心」と微笑み合いました。

健康と気遣い

 お互い歳を重ね、身体は若いころのように自由には動きません。
彼女は少し血圧が高めで、私は時々腰が痛くなることがあります。
散歩がてら街角のベンチで休むとき、彼女は「無理しないでゆっくり歩きましょう」と声をかけてくれます。
私も、彼女が荷物を重そうに持っていると、「せめてこの袋だけでも持たせてください」と差し出します。
そんな小さな気遣いの積み重ねが、穏やかな温もりとなって私たちの周囲を満たしていくのです。

静かな共通の時間

 ある日、私は自宅の小さな庭に彼女を招きました。
小さなパラソルの下、麦茶と簡単なサンドイッチを用意し、育ったミニトマトを一緒に味わいます。
初夏から盛夏に移りゆく時期、そよぐ風が葉を揺らし、鳥のさえずりが微かに聞こえました。
「こうしてゆっくりおしゃべりしていると、若いころに戻ったような…いえ、若いころには得られなかった穏やかさを感じます」と彼女がこぼすと、私も「ええ、年齢を重ねると、こういう静かな幸福がいっそう染み込んできますね」と頷きます。

おわりに

 75歳と74歳。
若いころのようなはつらつとした恋ではなく、むしろしんみりとした共感や、相手へのささやかな心配りが、私たちの関係をほんのりとあたためています。
派手な出来事はなくても、同じ季節の移ろいを感じ、同じ音楽に懐かしさを覚え、ときにはスマホに戸惑いながら、ゆっくり手を伸ばすような日々。
それはまるで、長い夏の午後、木陰に広がる淡い光のような、静かな幸せ。
これから先の人生、どれほど一緒に過ごせるかは分かりませんが、今このひとときが、私にとって何よりも愛おしい時間であることは確かです。

目次