81歳の冬、ほのかに灯るふたりの光

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はじめに

 81歳になった今、私の周りには静かな時間が広がっています。
妻を見送り、子どもたちも遠方に住み、それぞれの生活に追われている。
毎日決まった時間に起床し、簡単な体操をし、穏やかに朝食を済ませる。
冬の澄んだ空気の中、窓辺の椅子で新聞をめくり、時にはラジオから流れる音楽に耳を傾ける。
そんな変わりばえのない日々が当たり前になっていました。
けれど、今冬、近くの市民ホールで開かれたシニア向け朗読クラブに参加してみたことが、私の心をやわらかく揺らし始めたのです。
そこで出会った彼女は、80歳。
肩までの白髪を柔らかく結い、落ち着いた声色を持つ方でした。

出会いのきっかけ

 朗読クラブでは、月に数回、参加者がそれぞれ好きな短編小説や詩を選び、順番に読み聞かせます。
私はもともと文芸には興味があったものの、声に出すことには慣れていません。
初回の集まりで、私はやや緊張しながら童話を読みました。
読み終えると、彼女が「とても丁寧で聞きやすかったですわ」と穏やかに微笑んでくれたのです。
その何気ない褒め言葉が、私の胸に小さな温かい灯をともしたように感じられました。

はじめての会話

 休憩時間、私は彼女に近づき、「お礼を言いたくて」と声をかけました。
「先ほどの朗読、褒めていただき、ありがとうございます。
声に出すのは不慣れで、少し緊張していました」と正直に伝えると、彼女は「私も長い間、声を出して本を読むなんてしたことがなかったんです。
でも、最近はこうして新しいことを始めようと思って」と微笑みました。
その表情は、寒空の下で静かに光る小さなランプのようで、私の中の緊張を溶かしていくかのようでした。

互いの暮らしを知る

 彼女は未亡人で、私と同じく子どもたちは独立し、今は一人暮らしをしているそうです。
以前は学校で事務職をしていたと聞き、私もかつては会社勤めで日々忙しかったことを話します。
「定年後は時間はあるのに、何をしたらいいのか分からなくなった時期がありました」と彼女が言うと、私も「同じですね。
最初は本を読むばかりで、声に出すなんて考えもしなかったですよ」と笑います。
こうして少しずつ、相手の過去や今の生活が、さざ波のように心に広がり始めました。

テクノロジーとのつまずき

 彼女はスマートフォンは持っているものの、ほとんど使いこなせていないと打ち明けました。
「娘から写真が送られてくるんですが、どうやって保存したらいいのか分からなくて」と困り顔。
私も詳しいわけではありませんが、孫とのやり取りで少しは慣れています。
「よければ今度、お茶でもしながら一緒にやってみませんか」と提案すると、彼女はほんのり頬を染めて「助かります。
そういう機会があると心強いです」と控えめに応じました。

健康と気遣い

 81歳と80歳。
やはり体には様々な不具合が出てくる年頃です。
彼女は冬場の乾燥で喉が弱りがちと言い、私は軽い関節痛があって長く立っていると辛い。
休憩中、彼女が席を立つ時には「無理なさらないで、ゆっくりどうぞ」と声をかけ、私が腰をさすりながら椅子に戻ると、彼女は「寒いと関節に響きますね。
膝掛けを使ってみては?」と提案してくれます。
一つひとつの小さな思いやりが、声にならない優しい音色を空間に漂わせているようでした。

小さな習慣の共有

 ある日、朗読クラブが終わった後、彼女と一緒に市民ホール近くの喫茶店へ足を運びました。
店内には控えめな暖房が効いていて、窓の外には薄く雪が残る歩道が見えます。
コーヒーをすすりながら、彼女が「次はどんな本を読もうか迷っているんです」と相談してきました。
私は「短いエッセイなんてどうでしょう。
季節に合わせて、冬を題材にした静かな物語とか」と提案すると、彼女は「いいですね。
あなたがそう言ってくれると、少し勇気が出ます」と微笑みます。
そんな穏やかな対話の中に、私たち二人だけのリズムがゆっくりと生まれている気がします。

おわりに

 81歳と80歳。
人生の残り時間は、若いころよりもずっと限りがあり、激しい冒険や劇的な恋物語はもう訪れないと思っていました。
けれど、今この冬の日々、朗読クラブで交わす言葉と、喫茶店で温かい飲み物を分かち合う時間には、私たちなりの豊かな情感が育まれているのです。
互いの声、互いの不器用なテクノロジーとの格闘、互いの体調への小さな配慮。
そうした一つひとつが、ゆっくりと心に積み重なり、ほのかな光を灯してくれる。
これから先、どれほどの時間を共有できるか分かりませんが、今この瞬間、この冬の日差しのもと、ふたりの心は確かに温かく照らされています。

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