83歳の春、静かに広がるふたりの想い

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はじめに

 83歳の私が、新たな出会いに心を揺らされるなんて、数年前の私なら信じなかったでしょう。
妻を亡くしてから長い年月が経ち、成人した子どもたちは遠方で暮らし、連絡は時折の電話と写真のメール程度。
日々はゆっくりと過ぎ、朝は新聞、昼は近所を散歩、夕方にはいつものお茶で一日が終わる。
退屈とは言わないまでも、変化の少ない日常が当たり前になっていました。
しかし、この春、近くの市民ギャラリーが主催する「シニア水彩教室」に参加したことで、私の心に淡い色彩が差し込み始めたのです。
そこで出会った彼女は82歳。
穏やかな表情と、静かに微笑む唇が印象的な方でした。

出会いのきっかけ

 水彩教室では、初心者向けに花や果物、簡単な風景を描くところから始めます。
私は絵を描くなんて学生時代以来のこと。
彼女もまた、「絵筆なんて何十年ぶりかしら」と笑いながら、恐る恐る筆を握っていました。
その初回の授業後、私たちは作業台で絵具を片付けながら、ふと目が合いました。
「難しいですね、思ったより色がにじんでしまって…」と私が声をかけると、彼女は「本当に、私のチューリップが水浸しになっちゃいました」と微笑んでくれました。
その笑顔に、なぜか胸の奥が軽く弾む感覚を覚えました。

はじめての会話

 休憩時間、ギャラリー横の小さなテラスでお茶が用意され、参加者同士が打ち解ける場となりました。
彼女はカップを両手で包み込みながら、「ここに来たのは、少しでも手を動かして新しいことを感じてみたいからなんです」と話します。
私も「私も同じ気持ちです。
家でじっとしていると、一日が淡々と過ぎてしまいますからね」と頷きました。
彼女は「それに、春の花を自分なりの色で描けたら、なんだか心がほころびそうな気がして」と目を細めます。
その言葉に、私も思わず「いいですね、心がほころぶなんて表現」と返し、自然と笑みが浮かんだのでした。

互いの暮らしと今

 何度か教室に通ううちに、私たちは同じテーブルで描くことが増えました。
下手なりに筆を動かし、混じり合う色に戸惑いながら、休憩中に世間話をします。
彼女は未亡人で、子どもはおらず、長年勤めた図書館を退職してからは一人暮らしを続けているそうです。
「図書館にいたころは、毎日が本と人とで忙しく、歳をとることを忘れていました」と言い、今は時間がありすぎて戸惑うこともあるといいます。
私も妻がいた頃は外出のきっかけも多かったのですが、今は単調な生活。
「水彩を始めてから、少しずつ心に新しい風が吹いている感じがします」と私が言うと、彼女は「私も同じ気持ちですよ」と柔らかな声で返してくれました。

テクノロジーとの距離

 彼女はスマートフォンを持っていますが、使いこなす自信はあまりない様子です。
「友人が送ってくれる写真を大きく表示したいのに、つい変な画面を開いてしまって」と苦笑します。
私も得意ではありませんが、孫が送ってくれた動画を再生したり、天気予報を確認したりする程度には使えます。
「今度、一緒に画面を見ながら試してみませんか」と私が声をかけると、彼女は「それは心強いわ」と、目を細めて笑いました。
お互いに覚束ない手つきでも、二人なら少し勇気が出るものです。

健康と気遣い

 私も彼女も、長時間立ちっぱなしや細かい作業には体の不便を感じる年齢です。
彼女は肩こりに悩んでいるらしく、私も腰が少し痛むことがあります。
「もし疲れたら、遠慮なく言ってください。
座っているだけでも、作品は進みますから」と私が言うと、彼女は「ありがとうございます。
あなたこそ、無理をせずゆっくり筆を動かしてくださいね」と返します。
その気遣いは、決して大仰なものではなく、さりげなく互いを支え合う視線と、やわらかな言葉のやり取りとなって、私たちの間に静かに広がっていきました。

小さな日常の共有

 教室の帰り道、彼女と私は同じ方向に歩いていることに気づきました。
「天気がいいですね。
春の風が心地よいです」と彼女がつぶやくと、私も「この道沿いに桜の木があるんですが、もう少しで咲きそうですね」と答えます。
「咲いたら、また絵にしてみたいですね」と彼女。
「ええ、私も挑戦してみたいです」と頷くと、ふたりの足取りは少しだけ軽くなった気がしました。
小さな目標、ささやかな期待、それが私たちの日常を淡い色彩で満たしていくのです。

おわりに

 83歳と82歳という年齢は、人生の大半を超え、残る時間は限られているかもしれません。
激しい恋や大きな転機ではなくとも、この春、私たちの心には静かで優しい彩りが宿り始めています。
筆先で色を混ぜ、紙の上に花や景色を描くように、私たちは穏やかなやり取りで互いの心に小さな光を映しているようです。
これから先、どれほど一緒に筆を取ることができるかは分かりませんが、今この瞬間、やわらかな春風の中で、ふたりの想いは静かに、けれど確かに広がっているのを感じます。

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